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2:管理人のみ閲覧できます by on 2017/01/10 at 11:57:59

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弱者にとって生きにくい世の中

先日、ダウン症の障がいをもった方々の楽団、ミュージカルを観る機会がありました。
演ずる彼ら彼女らの表情をじっとみていて、自分の気持ちを素直に表現している姿に、またあまりにも素直な笑顔を見るにつけ、日々の僕自身の様々な行動や発言が多くのフィルターを通して表に出されている事に気づきました。

 人は成長するにつれて、素直になりたくても素直になれなくなってしまうのだと思います。フィルターを通して感情を表現することを、「大人になる」と世間では言われているように思います。
 ダウン症の人たちは純粋無垢な小学生、低学年の小学生と共通するところがあるように感じました。



 このダウン症の人のように知的な障害のある人たちが人間社会の中で阻害されてしまう。
これはなぜなのでしょうか。

 
結論を先に言ってしまうと  我々の住んでいる都市が(都市での生活が)、様々な弱者を阻害している。   ということに考えが至りました。





自然の中の一員である人間が、

どんどん、どんどん街に出て、都市をつくっていく。そこで多くの人達が生活するようになる。 

こんなことが戦後の高度経済成長に後押しされて、ここ数十年続いています。 加速し続けています。人口減少社会に移

行した日本においても、人口は減りながらも都市への移動は加速し続けています。

そして地方では高齢化が進みながら、過疎化がすすんでいます。



都市に人があつまる理由はひとまずおいておいて、知的な障害のある人たちが人間社会の中で阻害されてしまう理由を

考えるために、だれが、都市を作っているのかを考えてみます。


それは
 「頭のいい健常者が都市をつくっています。」 

あたりまえのことです。知的障害のある人、まだ知的に成長途上の子供たちは都市をつくれません。

頭のいい大人じゃないと、ビルや道路や地下鉄、またスマホや自動車、を設計したり、建設したり、映画をつくったり、スー

パーマーケットをつくったり、銀行やレストランをつくったりできません。

そして、頭のいい健常者の大人はどのように考えながら、これらの物やサービスをつくるのでしょうか?



都市づくりの基本方針は、「効率の良さ」 と 「快適さ」 を求めること です。

ビルは高くし、エレベーターは静かに早く動くようにし、床は平らにし、夏はすずしく、冬は暖かく仕事や生活ができるよう

にビルを建設します。

道路は凸凹がないように、ぬかるみがないように、車がスピードを出せるように、まっ平らに舗装します。

 これが、「効率を良くし」「快適にする」ということです。



これって、いいことですよね?

 「効率の良さ」 と 「快適さ」 を求めることはすばらしいことですよね?

人類はこの方針でこれまで歩んできました。

でもこの 「効率の良さ」 と 「快適さ」 を求めることが 特に弱者が生きづらさを感じる原因を作り出す根本原因になって

いると考えるようになりました。


全く ピンときませんよね。 何を言ってるんだ? と お思いの事でしょう。

「効率の良さ」 「快適さ」 を求める都市の逆にあるものを考えると、わかってきます。

「都市」の逆に存在するものは「自然」です。

野生生物、樹木、細菌、バクテリアなど全部を含めて最後には人間も含めて、ありのままの姿、ほったらかされた状態が「

自然」です。

 大自然の中に自分が入っている状態をイメージしてください。大人の人間が快適と感じるように温度調節され、虫を駆除

し、雨風にさらされる事のない管理された自然の中ではなく、ありのままの自然の中にいる状態をイメージしてください。



山奥でもいいし、無人島でもいいし、 ジャングルの中でもいいです。

腹が減るから、何かを食べないとダメですが、レストランも食堂もありません。 木の実はあります(笑)。

眠たくなってきたけれど、濡れていなくて、平らなところを探すだけで大変です。

でも、ヒグマも、イノシシも、ミズナラの木も、野の草花も、アリもシイタケも、文句を言わずに生きているんです。

大人の人間から見れば、自然の中は人間にとっての「効率の良さ」も「快適さ」も全くありません。

でも 「自然」の中では、大型動物レベル、小動物レベル、樹木レベル、草花レベル、虫レベル、バクテリアレベルなどあらゆる種類の生き物が共存しています。

 それぞれの生命が生きる空間、生きる時間 を譲り合いながらまた競争しながら、生き延びあっています。

多様な知能、多様なサイズ、多様な耐久力、多様な生命力の生命が、それぞれの空間で、それぞれの時間で生き続けて

います。そして、全体としてバランスのとれた大きな世界が存在しています。

 「自然」は多種多様の生命が共存できる空間、時間が存在しています。


 それに対して「都市」はどうなのでしょうか。

「快適さ」と「効率の良さ」という価値観にのみ支配され、しかも健常者にとっての「快適さ」と「効率の良さ」というこの価値

観に都市は支配されています。

 都市には弱者が弱者なりに活躍する空間がありません。

 大都市の中にブランコのある公園が無いのは、弱者である人間の子供の意見を聞いていない証拠です。 健常者の子

供の意見も聞かないのですから、知的障害者の意見を聞くわけがありません。

人間の弱者の意見を聞かないのですから、犬や猫の意見も聞かないし、ヒグマの意見も聞かないし、トカゲの意見も聞か

ないし、植物の意見も聞きません。

 正確に言えば、犬や猫やヒグマやトカゲや植物は人間のことばをしゃべりませんから、人間が彼ら?の快適さになど全く

配慮していないという事です。


つまり都市には弱者が弱者なりに活躍する、場所と時間が存在しません。 

都市は強者である健常者のための場所であり、空間になってしまっています。


しかし、よく眺めてみると

人間は存在はしていますが、「都市」とは逆の「自然」の影響を色濃く受ける空間があります。

どこでしょう?

それは「都市」からはほど遠い、つまり、都市的快適さ、都市的効率の良さからは距離を置く、「田舎」です。

「田舎」は「快適さ」と「効率の良さ」という大きな価値観に霞みそうになりながらも、「自然」の価値観をまだ持っています。

イノシシも、トカゲも、多くの植物も、カビも結構勝手気ままに生きていける、空間と時間があります。 空間と時間があると

いうよりも、強者である健常者が少ない分、弱者が割り込むことのできる隙間があるという事なのでしょう。

 

 不便かもしれない。
 不快なことが多いかもしれない。

しかし、「田舎」には、健常者の常識外にある、空間と時間が存在します。

放っておいたらいいのです。都市は健常者の発想にまかせておいたらいいのです。


まだ当分の間、少なくとも100年は、人類は自分たちの(自分たち健常者の)「快適さ」と「効率のよさ」を追い求めることでしょうから。


子供国会議員枠、障害者国会議員枠、野生生物代表国会議員枠(無理か・・)ができるのは、何百年先の話なのでしょう?
アイヌの国会議員が居たことが懐かしいです。

しかし、「田舎」に目を向ける健常者もいることでしょう。「快適さ」と「効率のよさ」以外の価値観を求める健常者も居ること

でしょう。 

「田舎」を如何に快適で、効率のよい空間にしようと夢見ないことです。

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2:管理人のみ閲覧できます by on 2017/01/10 at 11:57:59

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